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2011.11.24

広島にて-学会参加+広島市内、岩国、宮島訪問- Part3

 ようやく札幌も雪が降り、寒さが増してきた今日この頃です。
今年も残すところあと1ヵ月足らず、皆様、お風邪など召されていませんか?
なえぼ駅前歯科の大村です。

 本日、“ 広島にて Part3 ”広島市外編~岩国、宮島~をお話しさせていただきます。
岩国は日本三名橋である「錦帯橋」が有名ですが、広島駅からJRで50分、岩国駅から
バスで10分足らずで行くことができます。

あいにくのでしたが、岩国駅からの市営バスがまずユニ~ク でした
漫画家弘兼憲史の「島耕作」一色のギャラリーバスだったのです!
現在もビッグコミックオリジナルで「黄昏流星群」を連載中ですが、
岩国のご出身だったのですね。

ギャラリーバス車内

ギャラリーバス車内
車内一面、弘兼憲史の世界です!

 そうこうしているうちに早くも目的地に到着。ところで岩国の錦帯橋ですが、日光の神橋、
甲府の猿橋と並ぶ日本の三名橋であり、錦川に架かる五連の優美な曲線を描く木造アーチ橋です。

錦帯橋
 雨の錦帯橋(全長 193.3m)

 1673年(延宝元年)、第3代岩国藩主吉川広嘉(きっかわひろよし)により架橋され
ましたが、翌年の1674年(延宝2年)、洪水によって流失してしまいました。
同年、橋台の敷石を強化して再建したところこの改良が功を奏し、その後は1950年、
台風による洪水で流出するまで(1953年に再々建)、250年以上流失することなく
定期的に架け替え工事が行われその姿を保ちました。

 2001~2004年に26億円をかけて約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われ、
現在に至っています。橋を渡るための入場券(大人300円)はこのような架け替え工事
費用として使われています。なお江戸時代も「橋出米」という税が徴収されていましたが、
当時橋を渡れたのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に
入ってからでした。

おそらくアユを釣られているのでしょう、釣り人の姿も見られました。
また6~8月には鵜飼を屋形船から見ることもできるようです。
京都を想わせる風情のある情景でしたが、錦帯橋を渡り終えるとその余韻に浸る暇もなく
そのまま岩国城目指してロープウェーで山頂へ!
山頂からはさらに徒歩で10分の急こう配を歩くと岩国城にようやく到着 DIMG0118.gif


岩国城
     岩国城天守閣

 1608年に第1代岩国藩主吉川広家が築城するも、1615年の一国一城令により取り壊さ
れてしまい、現在ある岩国城は1962年(昭和37年)に、錦帯橋からよく見えるようにと
旧本丸南側に「天守構造図」という絵図を元に鉄筋コンクリート構造によって建てられた
ものです。天守内には刀剣や武具甲冑類、琵琶などが展示されていました。
一国一城令以降、このような山城はほとんどなくなり、平山城、平城へと移行していきました。

 その後は急ぎ足で、バスに乗りJRにて岩国駅→宮島口へ。
25分ほど広島駅方向に戻る形になり、その後フェリーに乗船 DIMG0084.gif
いよいよ宮島です!

厳島大鳥居(フェリー船内から)
厳島神社大鳥居(フェリー船内から)
大鳥居の主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる
現在の鳥居(重要文化財)を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したと
言われています。

 「日本三景」の一つで、神の島として平安時代に隆盛を極めた平清盛にゆかりの深い
地であり、また世界遺産にも指定されている厳島神社は、推古天皇が即位した6世紀に創建、
平安時代に平清盛によって現在の姿に整えられました。幾度かの災害により建て替えられては
いますが、平安時代の面影を十分に残し荘厳な趣を感じました。
平家の栄華が作り出した神の島、夢の都、厳島。何とロマンティックなことか。
思わず900年前、この地に確かにいたであろう平清盛に思いを馳せてしまいました。

水に浮かぶ厳島神社社殿
水に浮かぶ厳島神社社殿(国宝)

厳島神社能舞台
     厳島神社能舞台
国内でも唯一の海に浮かぶ能舞台であり、現在重要文化財に指定されている国内5つの
能舞台のうちの1つ。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演がその始まり
とされています。

 拝殿にて参拝し、家族の健康を祈願してきました 
免許を取って1年の娘と来年大学受験を控えた息子二人にお守りを
そして私自身はおみくじを・・・、平でした
きっと精進次第、人間を磨きなさい!ということですね。

 時間があって天気も良ければ、もう少しゆっくりしたかった宮島でしたが、
とりあえず学会参加の合間としては、最大限いろいろ見ることができた貴重な3日間
でした。と同時に、こうやって学会参加している今の自分の状況を、慈昂会の皆さんや
現スタッフにあらためて感謝した3日間でした
















 
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Posted at 01:41 | 旅行 | COM(0) | TB(0) |
2011.11.07

広島にて-学会参加+広島市内、岩国、宮島訪問- Part2

 こんにちは、なえぼ駅前歯科の大村です。
のっけからですが・・・、院内掲示板にダイエット宣言!!しました。
こんな感じです。

ダイエット宣言

 ちなみに広島でもかなり歩きました 
冬眠する熊さん(今年はドングリが不作で、熊さんも強制ダイエット?となり何だか可哀想ですね)
のようにならないよう、冬の間もしっかり運動したいものです。
 
 話は脱線してしまいましたが、“ 広島にて Part2 ”広島市内観光の様子を本日はお話しさせて
いただきます。広島城、縮景園、原爆ドームと平和記念資料館に行ってきました。

 広島城(別名:鯉城、堀にたくさん鯉がいたからとも言われ、「広島東洋カープ」の由来となり
ました)は、豊臣秀吉の五大老の一人で112万石を領した毛利輝元により、1589年に築城
されました。

 その後1600年、関ヶ原の戦いで敗戦した後(毛利輝元は西軍の総大将でした!)、かわって
福島正則が2代目広島城主となりました。ちょうど福島正則没後450年ということで、「福島正則
の20年」という企画展を行っていました。

福島正則
       福島正則

 関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の福島正則でしたが、二代将軍徳川秀忠が大名統制を
強化する中、幕府に無届けで城を修復したことを咎められ改易、以後1869年の版籍奉還
まで、およそ250年、12代に渡って浅野氏が広島城主をつとめました。

 浅野藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城でした
(縮景園も元は城内でした)。明治維新後に外堀が、原爆投下後に中堀が埋められ、現在は
内堀だけが当時の名残として残っています(広島市内の八丁堀は約8丁(880メートル)で
あった外堀にちなんだ地名だそうです)。

秋の広島城内堀の風景
   秋の広島城 内堀の風景

広島城
現在の広島城大天守閣(1958年に復元)

1945年8月6日午前8時15分原子爆弾投下によりすべての建物が崩壊するまで
350年近く保存されていました{1931年国宝に指定されていました)。

縮景園
   縮景園園内からの眺め

 縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が、元和(げんな)6年(1620年)から
別邸の庭園として築成させたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇でした
(当時は「泉水屋敷」と呼ばれていました)。

 明治時代以降は浅野家の別邸として利用され、「泉邸」と呼ばれるようになりました。
1913年からは一般にも開放され観覧できるようになり、1940年、浅野家から広島県に
寄付されて国の名勝に指定されました。原爆投下で壊滅的な打撃を受けましたが、1951年
に復元・開園し「縮景園」と改称され現在に至っています。

 何だか歴史の講義のようになってしまいすいません  
                            
 迎暉峯(げいきほう)と呼ばれるこの高台からは江戸時代、広島湾に浮かぶ似島(にのしま)
や厳島が一望でき、出船入船の様子も手に取るように見えたそうです。何とも風情ですね~。

 ゆっくり園内を見て周り、池の鯉に餌をあげたりして、いつもの慌ただしい日常から解放
されてしまいました。お天気も良く広島の秋を満喫した心地よい1日でした。
(次回はPart3に続きます)


Posted at 14:01 | 旅行 | COM(0) | TB(0) |